「日韓条約 知られざる交渉の内幕」 その3 【NHK】 (再)
その2から続きです。(青字はナレーション)(昔のテレビのアナウンサーの声はピンク字)
韓国人の各証言がたくさん出てきますが、ちょっと変。
元慰安婦というイ・オクソンさんの証言も、かなり変。
パクさんが配属されたのは長崎県大村の海軍航空隊の整備場でした。
日々激しさを増す空襲の下で戦闘機の整備にあたっていました。
パク氏「(つらい体験をされましたか?) 何度も死ぬ思いをしました。空襲の時に爆弾が落ちて爆音で耳をやられました。今でも耳鳴りが続いています。(爆音で耳鳴りがするようになりそれで悪化して片耳は聞こえなくなったのですね?) はい。 」
パクさんのように自ら徴用に応じた場合でも、当時の社会状況では断れなかったとみなされ被害者として認定される予定です。
妻「もう忘れてもいいほどの年月が経ったけれど、辛かった思い出だけは忘れられません。」
老人「この国の運命だったと思います。昔から日本に何度も侵略されてきたのだから、国の運命だったと思うしかありませんね。」
被害者のほとんどは補償もないまま60年間放置されてきました。
調査員が訪れるのを待ち構えるようにして自らの被害体験を語ります。
「韓国人を日本軍に入れようとみんな連れて行かれたんだ。」
申請をした人は現在までに16万人。被害者の大半は80歳を越えています。調査は時間との戦いです。
真相糾明委員会の活動の中で調査が難航しているのは、慰安婦の問題です。聞き取り調査もあまり進んでいません。
韓国で慰安婦の存在が公に知られるようになったのは1980年代後半の事です。今尚、社会の偏見が残っています。
パク・ジュンエ氏「今も尚、自分の経験を恥ずかしい過去だと考えて口に出せない人が大勢います。また、勇気を出して証言するにも辛い記憶を思い出す事になるわけですから、被害の内容を本人の口から聞き出すのは非常に難しいのです。」(慰安婦調査担当)
戦時中、日本軍の関与により、朝鮮の女性たちが戦地で慰安婦として働いていました。日韓会談の中では被害者の対象となりませんでした。
イ・オクソンさん、78歳。現在までに真相糾明委員会が確認している元慰安婦の生存者129人の内の1人です。
釜山で生まれたオクソンさんは、15歳の時、日本人と朝鮮人の二人組に捉えられ、中国吉林省に連れて行かれたと言います。
イ氏「
11歳以上の子が連れて行かれました。私がいた所では14歳が一番下で17歳が一番上でした。
一日に40~50人の兵隊の相手をしろと言われました。
言う事を聞かないと殴られ軍刀で刺されました。
毎日この傷を見ているから日本人のした事が忘れられない。」
2月から始まった真相糾明委員会の調査では11人が新たに名乗り出ました。しかし、その内の2人は家族に迷惑がかかると申請を取り下げています。
パク・ジュンエ氏「これまでは彼女たちを連れて行った人間や業者についての調査はされてきませんでした。しかし、調査の範囲を広げていけば慰安婦に関する真相究明にも新たな可能性が出てくると思います。そして、自分の過去を口に出来ない人々にも話すきっかけを与えられるのではないかと思っています。」
1953年、久保田発言をきっかけに日韓会談は決裂していました。
「会談は初めから緊張の内に続けられましたが、久保田発言を巡って紛糾し、10/21日の大師本会議の席上、遂に決裂。この問題は暗礁に乗り上げました。」
韓国側は李ラインでの取り締まりを強化。この年だけで47隻585人が拿捕され、韓国に連行されました。
一方、日本政府も朝鮮戦争の避難民や日本が強制退去処分にした在日韓国・朝鮮人を長崎県の大村収容所に収容していきました。
日韓の亀裂は深まっていました。この事態にアメリカ・アイゼンハワー政権は再三に亘って交渉の再開を促しました。
日本には久保田発言の撤回を、韓国には李ラインの廃止を要請しました。
ベンジャミン・フレック氏「当時アメリカは、共産主義と戦うために出来るだけ多くの同盟を得たかったのです。東アジア地域で日本と韓国が対立している事は共産圏に対抗するための防共ラインの構築を目指していたアメリカにとって決して好ましいことではないのです。」(当時の駐韓大使館 書記官)
先に譲歩したのは日本側でした。久保田発言と対韓請求権を撤回し、4年半に亘って中断されたいた交渉が再開されました。
しかし、その最中、韓国で政変が起きました。
(NHKニュース) 50万人のデモ 李政権を倒す
「韓国全土に広がった反政府デモは遂にリショウバン政権を倒しました。」
1960年4月、大統領選挙の不正を糾弾する民衆の声は次第に高まり、大規模なデモに発展しました。4/19日には、デモ隊が大統領官邸に押し寄せ、警官隊と衝突。200人近くが死亡する惨事となりました。
日本に対して強行な姿勢を取ってきたイ・スンマン大統領は辞任を余儀なくされました。
決裂と再開が繰り返された日韓会談は8年が過ぎても具体的な進展は見られませんでした。しかし、このあと、会談は急速に展開していくことになります。
2005年1月、日韓条約を結ぶ最終段階の記録文書が初めて公開されました。
第6次第7次の会談の議事録と韓国政府内の機密文書です。会談は被害者への個人補償をどちらの国がどのように行うのかを中心に話し合われました。
「日本は過去の歴史を反省し、被害者に補償せよー!」
今、韓国では日韓条約の見直しを求めるデモが相次いでいます。植民地支配の被害者にとって、個人補償の問題は今に至るまで解決されていないという主張です。
韓国政府は、このような人達の声に答えて文書の公開に踏み切りました。
キム・ウォンジン課長「公開によって日韓条約に足りない部分がある事が発見されれば、
その足りない部分を参考にして、日韓両国の望ましい関係を築き上げる為にどうすれば良いか。両国で真剣に考え直すきっかけになると思ったのです。」(外交通商部 東北アジア課)
文書の公開を中心となって求めてきたのは韓国人犠牲者遺族会です。これまでいくつもの戦後補償裁判を起こして来ましたが、日韓条約が壁となってきたからです。
キム・キョンソク会長「韓日協定で全て終わったと裁判の度に日本側は主張します。何がどのように終わったんでしょうか。私達はもどかしい。なぜ終わったのか、実情はどうなっているのかどうしても知りたかったのです。」(太平洋戦争韓国人犠牲者遺族会)
遺族会会長のキム・キョンソクさんは、79歳。1990年代の初めから一貫して日韓条約の壁と戦ってきました。
キムさんが住むチュンチョン市には、キムさんが自費で建てた無縁仏の納骨堂があります。キムさんの兄も
強制連行で北海道の炭鉱に連れていかれ、その地で亡くなったと言います。戦後、キムさんは、兄の遺骨を探し続けましたが未だに見つかっていません。この納骨堂はその旅の過程で出会った無縁仏を供養するために建てられました。
キム氏「兄の骨は死ぬまで探し続けます。遺骨を探し出して立派なお墓を建てなさいというのが母の遺言でしたから、必ず見つけ出したいのです。ここにまだ日本名のままの人がいます。遺族がまだ見つかっていない遺骨です。とても残念で悔しいことです。」
キムさんが日本の鉄鋼会社に徴用されたのは16歳の時でした。
「火入れ式を済ませた川崎工場の第5溶鉱炉から4/6日初めて・・・」
キムさんが働いていたのはこの鉄鋼工場です。その頃日本は戦争遂行の為に鉄鋼生産を拡大していました。ここでキムさんは
社員の暴行を受け、右腕に大きな怪我をしました。キムさんはその怪我が元で帰国。戦後も右腕に運動障害の後遺症が残りました。北海道の炭鉱に徴用された兄は亡くなっていた事が分かりました。
1991年、キムさんは日本企業相手に初めての裁判を起こしました。長い間、
強制連行についての謝罪も、障害を負わせた事に対する損害賠償も全く無かった事への怒りをぶつけたのです。
キム氏「もちろん私達も裁判で負けています。しかし私達は100年裁判で戦うつもりです。私が死んだら子供が。子供が死んだら孫達が戦いを続けていくでしょう。」
植民地支配の被害者達は、次々と日本政府や企業を相手に謝罪や補償を求める裁判を起こしました。韓国に関る戦後補償裁判は現在30件以上。その多くが日韓条約を理由に訴えを退けられています。
日韓条約の一文です。
-両国及びその国民の請求権に関する問題は、完全かつ最終的に解決された-
この一文が原告たちの訴えを退けて来ました。
そうした一連の裁判の中に具体的な証拠に基づいて未払い賃金の返還を求めた訴訟があります。
原告の1人、ヨ・ウンテクさんです。ヨさんは1943年、大阪の製鉄所に徴用されましたが、給料のほとんどは貯金の名目で会社側が預かっていました。
ヨ氏「私達は補償をくれと言っているのではなく、貰えなかった労賃をくれと言っているんだよ。未払い金。当然、未払い金を、私の財産なんだよ。貯金して預けておいたお金なんだ。預けておいたお金を何故渡してくれないんだよ! 私が貯金したのに。そうじゃないですか。」
徴用されていた2年間で差し引かれた金額が記された書類です。495円52銭。この資料があってもヨさんの訴えは日韓条約を理由に棄却されたのです。
ヨ氏「あん時もう食料が足らなくて1/3も足らない食料を、、骨みたいに痩せて汗水流しながら一生懸命働いてこういう風に、その月々その2年間集めて貯金したのです。この金額この金を韓国にやったとして(返して)くれないの。65年に日韓条約に、、」(日本語)
これまでに、4件の裁判が和解し、見舞金などの名目のお金が支払われました。しかし、日韓条約という法的な壁を乗り越えたわけではありません。
「華やかな反映の道を辿ってきた日本の経済は、膨れ上がる一方でした。」
日韓会談は新たな段階を迎えていました。1960年、池田内閣が誕生した日本では、所得倍増計画が打ち出されました。池田内閣は日韓会談に積極的な姿勢で臨みました。
小坂善太郎外務大臣が韓国を公式親善訪問し、植民地支配について初めて遺憾を表明しました。
「小坂外務大臣は日韓両国の友好を望む声明を読み上げました。」
李承晩大統領が退陣した韓国政府にも日韓会談への態度に変化が見られ始めました。チャンミョン首相は交渉の早期再開に意欲を見せました。
「対日問題について過去の事は水に流して現実的な外交政策をとり、国交を正常にするため全力を尽くすと語りました。日韓関係の見通しは一段と明るさを加えました。」
1961年、第5次会談が開かれました。この会談では植民地支配の被害者に対する補償が本格的に話し合われる事になりました。韓国側は、謝罪や償いの意味を込めた"請求権"という形で補償を要求しました。
しかし、植民地支配は合法だとする日本側は"請求権"は受け入れられないという立場でした。
(つづく)
あらゆる裁判で"日韓条約の壁"かぁ~
昔の外交は良い仕事してましたねぇ(☆。☆) !!
韓国人の証言をいちいちツッコミませんが・・・やっぱヘンですよねっ。
あと、一日に40~50人相手って・・・常識では考えられまへん
次は、"請求権"をめぐる攻防です。
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