チャンドラ・ボースの遺骨が日本に!(・・;) 「祖国に帰れず70年・日本に眠るインド人秘話」 【未来世紀ジパング】
BSジャパン 【未来世紀ジパング~沸騰現場の経済学~】(3/27)で、
「日本とインドが急接近!親日家のキーマン」というテーマの中、
あのチャンドラ・ボースの供養の様子を東京の寺でやっていてビックリ!
遺骨が日本の地に眠っているのを初めて知ったので、その部分のみ記録しました(青字はナレーション)
日本では「インド独立の父はガンジー」と習うだけで、チャンドラ・ボースの事を知る人は少ないと思います。
モディ首相が『チャンドラ・ボースの勇気と愛国心を忘れてはならない』とした事で、インドで再評価されているのは非常に素晴らしい☆
この際、大東亜会議についておさらいしましょうかね。
(2014年に首相に就任し、主要国の中で最初に日本に訪問したモディ首相。
新幹線の導入も、モディ首相の力が大きく、俄然日本にラブコールを送ってきている。という話のあと・・・)女子アナ「そのモディ首相も関わる秘話が日本にあったんです。」
東京杉並区。ここで一風変わった供養が行われていた。
一見、ごく普通の読経のようだが、祈りを捧げていたのは全員インド人。
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実はこの蓮光寺、インドの歴史に埋もれたある人物の遺骨が眠っている。
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チャンドラボース。
第二次大戦中、インド独立を目指し、宗主国イギリスに少数のインド人部隊で戦いを挑んだ男だ。
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非暴力主義のガンジーに対し、イギリスとの徹底抗戦を主張。
旧日本軍と行動を共にし、戦後すぐに(1945年8月18日)台湾で事故死した。
それから70年、封印された歴史が明らかに。
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連合国から追われていたボースの遺骨は、母国インドに帰れず、密かに日本へと持ち込まれて今に至る。
蓮光寺の望月教善住職「当時、政情が不安定で遺骨を引き受ける所がなかったんですけれども、霊魂に国境はないのみならず、死者を弔うのは僧侶としての役目と言って先々代が引き受けられたと聞いております。」
戦後のインドの歴史から忘れ去られたチャンドラ・ボース。しかし今、再評価の兆しが。
「独立の為に戦ったボースを弔う事はインド人として当然です」
実はあのモディ首相もボースの名誉回復を進める1人だ。
この日、新たな訪問客が。
モディ首相とも親しいインド政界の大物(人民党のギリッシュ・バパト氏)
訪日中の忙しい政務の合間を縫ってお忍びでやってきた。
ギリッシュ「我々の代わりに彼の供養を続けてくれた日本に、インド人はみな深く感謝しています。」
日本とインドを繋ぐ知られざる歴史が東京の片隅にあった。
(VTR終了 スタジオへ)
女子アナ「この話、私も知らなかったんですけども、佐々木さんはこのチャンドラ・ボースの再評価をどんな風に。。」
佐々木俊尚氏「あの、凄い実は微妙な政治的問題があって、戦前ね、そのイギリスの植民地でそこから独立しようと思って、でもまぁイギリスの弾圧が凄かったので日本に逃れてきてですね、日本の軍部に協力した人じゃないかっていう事になってしまったんですよね。
やっぱりモディさんは日本と仲良くしたいってのがあるので、その日本とインドの急接近の中で、かつてのチャンドラ・ボースも評価も高まってきたっていうそういう流れはあるんでしょうね」
「モディ首相もこのように言っています。『チャンドラ・ボースの勇気と愛国心を忘れてはならない』と・・・」
(以下 略)
ちなみにウィキによると・・・
9月5日、ボースの遺骨は日本に運ばれ、9月7日には参謀本部の元に届けられた[19]。日本陸軍はインド独立連盟東京代表ラマ・ムルティに遺骨を引き渡した[21]。東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺の住職望月教栄が葬儀を引き受け、9月18日にボースの葬儀が行われた[21]。葬儀はビハーリー・ボースのそれとして行われ、ビハーリー・ボースが寄居していた中村屋の菓子が供えられたという。ムルティは大部分の遺骨を蓮光寺に託し、以降蓮光寺によって遺骨は保存されたが、望月住職はネルー派による遺骨奪回を怖れて、遺骨を抱いて眠ったこともあるという[22]。またムルティは遺骨の一部を個人的に保管し、その死後にはムルティの弟の元に渡り、2006年にはボースの兄の孫に返還されている[23]。
蓮光寺には、インドのプラサード大統領、ネルー首相、インディラー・ガンジー首相などが訪問しており、その時の言葉も碑文として残されている。また、多くの在日インド人も訪れている。
元ニューヨークタイムズ東京支局長から見たチャンドラ・ボースです
《元ニューヨークタイムズ東京支局長、ヘンリー・ストークス氏「河野談話はプロパガンダに利用」&「日本はアジアの希望の光」 【新報道2001】》より一部抜粋
2013年11月6日 憲政記念館にて
大東亜会議70周年記念大会 ⑦ ヘンリー・ストークス「日本はアジアの希望の光だ」
(元ニューヨークタイムズ東京支局長で、三島由紀夫と深い親交があり、日本の歴史や文化について極めて客観的な立場から正当な評価を与えてこられた方という紹介のあと・・)
皆様、こんばんは。ヘンリー・ストークスです。このシンポジウムは1943年の11月5日、6日に東京で開催された大東亜会議の70周年を記念して開催されております。
このような歴史的な瞬間を皆様と共にできることをたいへん光栄に存じます。
20世紀で最も驚くべき展開は、500年続いた植民地支配、その禍が終焉を迎えたことにあります。白人による支配が霧散してしまいました。
誰もがまったく予想しなかったことです。1930年代末に「インドの独立はいつになるか」と問われたネルーは、「70年代には実現するかもしれない」と答えました。
つまりそれは、「私の亡き後に」という意味です。
ところが1940年代初頭には、インド人たちの間に独立の気運が突如として高まりました。
なぜ独立の気運が高まったのでしょうか。
答えは簡単です。
第二次大戦が勃発し白人の植民地支配500年のドラマに出現した新興勢力が、白人の植民地支配に痛烈な打撃を与えたからです。
その新興勢力こそ、日本でした。
インド独立のタイムテーブルは、ネルーの「70年代に達成できるかもしれない」というものから、一気に第二次世界大戦の終焉時へと短縮されたのです。ここで、歴史の時間を20世紀から17世紀初頭まで少しもどしてみましょう。
インドでは、イギリスが1600年に東インド会社を設立し、植民地支配に着手しました。イギリスはマドラス(1637年)、ボンベイ(1661年) 、カルカッタ(1690年)に東インド会社を進出させました。
イギリスの侵略は、プラッシーの戦い(1764年)、マイソール戦争(1799年)、シーク戦争(1845年)と続き、1957年から59年にかけては、反イギリス民族闘争で 有名な「セポイの乱」が起こりました。
こうしてイギリスがインドを抑圧支配する中で、1868年、日本で明治維新が起こりました。ほぼ同じころに、インドでは独立のために戦った歴史的な人物が生まれています。
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1869年にはマハトマ・ガンジーが生まれ、
1897年には、チャンドラ・ボースが誕生しています。
1877年、イギリスが直接インド全土を統治するインド帝国が成立し、ビクトリア女王が「インド皇帝」として即位しました。![]()
つまり、ボースはイギリスのインド植民地支配の絶頂期に誕生したのです。
ボースは今でもインドで「ネタージ」と呼ばれています。
ネタージとは「偉大な指導者」という意味です。![]()
日本の支援を得て、ボースはINAを結成しました。
Indian National Army インド国民軍です。非暴力主義でイギリスの植民地支配と戦ったガンジーと 対照的に、ボースは司令官として戦闘を率いました。
1943年5月16日、ボースは来日し、嶋田海軍大臣、永野軍令部総長、重光外務大臣などと面会し、
その上で、東條英機首相と会談しました。
ボースは日比谷公会堂で講演しました。
そのメッセージは当時のアジアの人々の気持ちを代弁していました。「私が小学校に通い始めた頃に、アジア人の国が世界の巨人・白人帝国のロシアと戦いました。」
「このアジアの国はロシアを大敗させました。 そしてその国こそが、日本だったのです。」
「このニュースがインド全土に伝わると、興奮の波がインド全土を覆いました。」
「インドのいたるところで、旅順攻撃や、奉天大会戦、 日本海海戦の勇壮な話が、沸き立っていました。」
「インドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を素直に慕いました。」
「親たちが競って、元帥や大将の写真を手に入れようとしましたが、できませんでした。」「その代わりに市場から日本製の品物を買ってきて、 家に飾りました。」
ボースは「日本はアジアの希望の光です。」とハッキリ語っています。
ボースはこう続けます。「このたび日本はインドの仇敵のイギリスに宣戦しました。」
「日本はインド人に、独立のための千載一遇の機会を与えてくれました。
われわれはそのことを自覚し、心から日本に感謝しています。」「ひと度この機会を逃せば、今後100年以上にわたりこのような機会が訪れることはないでしょう。」
「勝利はわれわれのものであり、インドが念願の独立を果たすと確信しています。」
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重要なのは、言葉より行動でした。
ビクトリア女王が「インド帝国」皇帝に即位して66年目にあたる1943年10月、自由インド仮政府が樹立されました。シンガポールでの大会で、ボースは満場の拍手をもって、仮政府首班に推挙されました。
ボースは「チャロ・デリー」 つまり「デリーへ!」と、 進撃を宣言し、人々はその メッセージを掲げて行進 しました。
祖国インドへ向けた歴史的な進撃の開始でした。
インド国民軍INAの将兵は日本軍とともに、インド・ビルマ国境を越え、インパールを目指し「チャロ・デ リー!」と雄叫びをあげ、進撃しました。
「われらの国旗を、レッド・フォートに掲げよ」そう言ってボースは将兵たちを激励しました。
自由インド仮政府は、日本とともに、イギリス、アメリカに対して宣戦布告をしました。
同年(1943年)11月5日より6日間にわたって、東京で大東亜会議が開催されました。これは人類の長い歴史において「有色人種によって行われた最初のサミット」となりました。
東條首相、満州国の張景恵国務総理、中国南京政権の汪兆銘行政院長、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、タイのピブン首相代理であるワイワイタヤコン殿下の首脳が一堂に会し、ボースはインド代表を務めました。
今日、日本の多くの学者が大東亜会議は日本軍部が「占領地の傀儡」を集めて行った国内向け宣伝だったと唱えています。
しかし、そのようなことを言う日本人こそ、日本の魂を売る外国の傀儡というべきです。
会議では大東亜共同宣言が満場一致で採択されました。
ボースは「この宣言がアジア諸国民のみならず、全世界の被抑圧民族のための憲章としようではないか」と訴えました。
ボースは、日本は「全世界の有色民族の希望の光だ」と宣言しました。
この500年の世界史は、白人の欧米キリスト教諸国が、有色民族の国々を植民地支配した壮大なドラマでした。そのなかにあって、日本は前例のない国でした。
第一次世界大戦の後のパリ講和会議で、日本は人種差別の撤廃を提案したのです。
会議では各国首脳が、国際連盟の創設を含めた大戦後の国際体制づくりについて協議しました。
人種差別撤廃提案が提出されると、白豪主義のオーストラリアのヒューズ首相は、「署名を拒否して帰国する」と言って退室しました。
議長であるアメリカのウィルソン大統領は「本件は平静に 取り扱うべき問題だ」と、日本に提案の撤回を求めました。
日本で外務大臣も務めた日本代表団の牧野伸顕男爵は、ウィルソン議長に従わず採決を求めました。イギリス、アメリカ、しましたが、 、ブラジル、ルーマニアなどが反対出席16カ国中11カ国の小国が 賛成し、圧倒的多数で可決されました。
あろうことかウィルソン大統領は「全会一致でない」として、この採決を無効としました。
牧野は多数決採択を求めましたが、議長のウィルソン大統領は「本件のごとき重大な案件は従来から全会一致、少なくとも反対者なきによって議事を進める」と採択を無視したのでした。
人種差別撤廃提案が11対5の圧倒的多数で可決したにもかかわらず、ウィルソン大統領はこの議決を葬ったのです。今日の文明世界ではありえないことです。いまアメリカの大統領は黒人ですが、そのようなことは当時は全く考えら れないことでした。
日本人も白人ではなく有色民族です。
同じ有色民族として誇りある日本人は白人の植民地支配を看過することができ なかったのです。
ここでインドネシアについても触れておきましょう。
インドネシアの植民地支配は、1596年にオランダが艦隊をインドネシアに派遣したことに始まります。
オランダの350年以上に及ぶ植民地支配に終止符が打たれたのは、1942年の日本軍の進攻によるものでした。
オランダ軍は、わずか7日で降伏してしまいました。(以下 略)
大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ナラーティップポンプラパン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース
チャンドラ・ボースの再評価、インドと日本の接近は、「日本のアジアを侵略した」という汚名を雪ぐ一歩になるかもしれません。
パール判事、チャンドラ・ボースにしても、日本とインドの関係は深いし、
インド国内にまだまだ問題は多いけど、ウィンウィンの関係になれる国第一位だと思います。
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・・・アメリカの外交専門誌「フォーリン・ポリシー」によると、2012年末、再登板が決まった安倍総理に真っ先に祝福の意を伝えた海外要人の一人が当時グジャラート州の首相だったモディ氏だったという。
この両国首脳の親密ぶりの裏にあるのはどんな思惑なのか。・・・
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