「日本人 ペリーと闘う 165年前の日米初交渉」ペリーが見た日本人女性・日本人の印象【歴史秘話ヒストリア】
NHK【歴史秘話ヒストリア】で、
「ペリーとの外交交渉を行う日本人」をやっていたんですが、その中でペリーから見た「日本人」の部分を抜き出して記録しました↙
番組内容をザックリ言うと・・
「日本はペリーに強引且つ一方的に開国させられたというイメージ」がまだ強いけど、 それを覆す資料が出てきて
最新研究では、幕府は2回目のペリー来航前に、周到に準備して冷静に対応していたと判明。
165年前のペリーとの交渉、(「ペリー提督日本遠征記」「墨夷応接録」などで交渉の詳細を読み解くと)
実は、幕府は軍人のペリーに対し、日本側は理屈と論理つまり知力で対処し、9隻の大艦隊で再来日するまで研究し尽くした結果、
非常に素晴らしい二国間交渉になったという話でした。
当時の日本人はマジ凄かった❗
・・交渉の場では高圧的で脅しすらかけて来たペリー。ところが日本の庶民に対してはそうでもなかったようです。
(浦賀にあるペリーゆかりの鉄鍋は、漁師が自らペリー艦隊に飲料水を提供したお礼の物という話 略)
・・また 横浜ではペリー自身が 農家を訪ねました。名主の妻や妹からお菓子やお酒のもてなしを受けた ペリー。日本女性の印象をこう 記しました。-若い娘は姿よく美しく、そのふるまいは活発である
また、女性はまわりから大切に扱われている為 本人もそれを自覚し品位を保っている-ペリーたちにとって庶民との触れ合いはつかの間の休息だったのかもしれません。(中略)・・交渉の後、ペリーは幕府の交渉団を船に招きパーティーを開きました。余興として船員たちによる喜劇が上演されると・・更に 酒に酔った幕府の役人が…。「日本とアメリカの心は一つ!日本とアメリカの心は ひと~つ!アッハッハッ!」…と大騒ぎ。ペリーの部下の言葉です。『母国を出て以来、これほど笑い楽しんだことはなかった』いつしか 彼らは「友人」になっていたのかもしれません。後に ペリーが記した日本人に対する印象です。-日本人は教育が普及しており、何にでも非常な好奇心を示す
また 大変器用で その完璧な手先の技術には 実に驚いた。日本人が西洋の知識を習得したら、機械技術の成功をめざす上で強力なライバルになるであろう-(中略)165年前 大国アメリカと初めて 相対した日本人。自ら 正しいと信じたことを冷静に そして正々堂々 主張したその姿は日本の歴史に確かに刻まれています。


アメリカ人のラナルド・マクドナルド『マクドナルド「日本回想記」-インディアンの見た幕末の日本-』(村上直次郎編・富田虎男訳訂、刀水書房、1981年)には、
「日本人のすべての人-最上層から最下層まであらゆる階級の男、女、子供-は、紙と筆と墨を携帯しているか、肌身離さずもっている。すべての人が読み書きの教育をうけている。また、下級階級の人びとさえも書く習慣があり、手紙による意思伝達は、わが国におけるよりも広くおこなわれている」(p.124)と、文書社会の到達点が記されています。
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黒船で有名なペリーの『ぺルリ提督日本遠征記』 (土屋秀雄・玉城肇訳、岩波文庫、1955年)は、
本が安く大量に売られていることを驚き、「教育は同帝国至る所に普及して居り」(p.140)と、教育の普及ぶりを評価しています。
ウィリアム・グリフィス『隠者の国・朝鮮』William Elliot Griffis, Corea the Hermit Nation, Kessinger, 2004.
朝鮮の建築はきわめて原始的な状態にある。城郭、要塞、寺院、修道院および公共建築は、日本や中国の壮麗さにまるで及ばない。この国は古い歴史を誇っているのに、石造の遺跡がほとんどない。住居は瓦葺きか藁葺きで、ほとんど例外なく一階建てである。小都市では規則的な通りに配置されておらず、あちこちに散在している。大都市や首都でも、通りは狭くて曲がりくねっている。(p. 262)
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イザベラ・バード(林尚得訳)『朝鮮奥地紀行』平凡社, 1993年
二十五万人と見積もられている人びとが「地べた」、主として迷路のような路地で暮らしている。その路地の多くは、荷を積んだ二頭の雄牛が通れないほど狭い。実にやっと人ひとりが、荷を積んだ雄牛一頭を通せる広さしか無い。さらに立ち並んでいるひどくむさくるしい家々や、その家が出す固体や液状の廃物を受け入れる緑色のぬるぬるしたどぶと、そしてその汚れた臭い縁によって一層狭められている。(1巻, 71-72頁)
それにも拘わらず、ソウルには美術の対象になるものが何も無く、古代の遺物ははなはだ少ない。公衆用の庭園も無く、行幸の稀有な一件を除けば見せものも無い。劇場も無い。ソウルは他国の都市が持っている魅力をまるで欠いている。ソウルには古い時代の廃墟も無く、図書館も無く、文学も無い。しまいには、他には見出せないほどの宗教に対する無関心から、ソウルは寺院無しの状態で放置されている。1巻, 106-107頁)も


・・ポラック氏「手紙もありました。これが日本に着いた時にお母さん宛ての最初の手紙。」
母親へ送った手紙、その中には日本人との交流にも触れていました。
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『歩き疲れた時など、よく日本人の家に上がらせてもらって、お話をしたり、お茶やお菓子を振舞われたものです。日本は実に面白い・・
こうした
親切で優しい人々がいる事をぜひ知ってほしい』
ポラック氏「日本に関する全てのものに愛着を感じます」
(中略)
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日本人を愛するが故にこんな写真まで撮っていたビゴー。
結婚相手に選んだのも日本人の女性でした。・・・
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・・江戸時代は『働かざる者食うべからず』と言ったくらい、勤勉で、各藩が産業開発と経済発展に競争的にやったが、
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朝鮮の場合は全く何もしない。遊んで暮らす。
一言で言えば『働く者は食うべからず』 働く者は皆軽蔑されるので商工業というのは全然ない。・・
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