【南京大虐殺】元海軍軍人・深井俊之助(104)さんの証言「支那は略奪・強姦平気でやる、日本人はしないから歓迎されていた」【#虎8】
【DHC】12/5(水) 井上和彦×藤井厳喜×居島一平【虎ノ門ニュース】(←動画) で
大東亜戦争・偉大なる記録 『昭和の英雄が語る 南京攻略戦の真実』と題し
元海軍軍人・深井俊之助(104)さんが、南京攻略戦参加時の貴重な証言をされていたので記録しました(やや要約)
陥落10日後の視察時、「中国の子供達が日の丸の旗を振って歓迎してくれた」「虐殺なんて、一体何の話だと」・・これが全て。
この際、それを裏付ける「南京陥落後の写真記録」も併せて紹介します。
井上氏「深井さんは南京戦の方にも?」
深井氏「水雷艇『雁』(カリ)ゆう小さい船に乗ったんです。それが揚子江遡行作戦をやって、上海からハンカオへ揚子江を遡るのに、途中南京へ行った。
揚子江の2カ所に砲台があった為に陸軍が南京に上陸できないので、雁の大砲で砲台を潰しちゃった。
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だから(南京)陥落して10日位経って我々が視察に行った時にはね、
中国の子供達が日の丸の旗を作ってそれを振って歓迎してくれたんだよ、僕らを。
なんか、かわいい子だなぁ~思って・・
それで後から『虐殺があったぞ』なんて話が出て『そんなバカな事あるもんか』と実際に僕らは子供に向かって『ああよしよし』なんてね、うん。」
井上氏「もし南京虐殺と言われるように、何十万人も殺されてたら死臭でとてもじゃないけど」
深井氏「とーんでもない。
子供が街に出てこう旗振って遊ぶ位だから静かなもんだったんだよ。
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支那は略奪をやるからね。(中国の兵隊が) うん、うん強姦平気でやるからね、日本人はしないからね、だから日本人はね、その頃には歓迎されていたんだ。」
(VTR終了 スタジオ)
井上氏「こういう証言だった。揚子江を上がって陸軍の部隊が作戦行動を支援していたわけ。で、中国の部隊の砲台を2つ潰して、それによって、戦勝に寄与したという、ご褒美(当時の850円の)を見せて頂いた。
陸軍が南京攻略戦やってるが、こういう
海軍の方の証言は極めて珍しい。貴重な話」
居島氏「子供達が日の丸の旗を作って振ってたって」
藤井氏「当時の写真にも出てる。」
井上氏「だから各地でたくさん撮った深井さんのアルバムの写真にも子供達の笑顔・遊んでる姿が。だから虐殺なんて、一体何の話だと」
居島氏「まして30万人って言われたらね・・」「死臭でね」 居島氏「その土地に入れない」
井上氏「揚子江の中にももういっぱい遺体が流れてくるだろうし、
こういう貴重な証言をこれからも皆さんにお伝えしていきたいが、藤井さん、南京大虐殺のこういう嘘はタチ達悪いですよねー」
藤井氏「『南京学会』があって僕は研究者じゃないが、皆さんの発表を、、だいたい実態は明らかになってる。もちろん一般市民の大量虐殺なんてなかったってもうハッキリしてると思う。
ただ激戦だったのは確かだし、その後、便衣兵(ゲリラ)を、、これは国際法上、捕まえてその場で処刑。そういうのがあったのは事実。
当時の南京で外国人も含めて、委員会が出来てて、その記録なんかも日本人が大量虐殺したなんて全然出てこない。まぁ
後から作られた話ですね。」
(以下 略)
「南京の真実」を知ってる深井さんは、さぞ悔しい思いをされていると思います。
南京の市民、特に子供達が日本兵にまとわりついてる写真や、大虐殺なんて聞いた事もないという証言もいっぱいありますしね
«【南京大虐殺】 虐殺されたハズの南京市民と日本兵のほのぼの画像・映像 & 南京を知るジャーナリスト達の証言 (拡散希望)»2015年10月12日
・・
1937年(12年)12月13日 南京
中国門爆破の瞬間
中華門へ50mに迫って攻撃する野砲陣。
手前は一番乗りに待機する部隊1937年(12年)12月13日 南京城陥落
12月14日 南京陥落の翌日
最後まで踏みとどまっていた南京市民が防空壕から出てほっと安堵の表情を浮かべる。「もう大丈夫」と手を差し出す日本兵 『アサヒグラフ』
12月15日(南京陥落から2日目)
15日は自宅で食事を作れなかったため水餃子を食べる難民が多かった (撮影 佐藤振寿氏)
南京安全区付近の露店にて日本兵も水餃子と食べている (撮影 佐藤振寿氏)
安全区の南京市民たちは、日本人を恐れることなく従軍カメラマンの前に立った(撮影 佐藤振寿氏)
安全区の外の道路で、自家菜園の野菜を売る南京市民(撮影 佐藤振寿氏)
安全区にて。誰も日本人を恐れていない。(撮影 佐藤振寿氏)
家がない難民は、安全区の中にバラックを建てて住んでいた。
日本の従軍カメラマンがそばにいるというのに子供たちを安心して外で遊ばせている (撮影 佐藤振寿氏)
12月16日(南京陥落から3日目)
たった一人の父親が支那軍に拉致され天涯孤独となった中国人の少年。
親切にされた日本兵の傍らを離れようとせず、「何でもするから東京に連れて帰ってくれ」と せがんでは、兵隊さんたちを泣かせている。『アサヒグラフ』12月17日(南京陥落から4日目)松井石根大将 南京入城
(映像)
「日本軍万歳」を叫ぶ南京の避難民 『支那事変画報』
すっかり日常を取り戻した南京市内 『アサヒグラフ』
17日の入場式が終わると、日本軍が南京市民にお菓子を配り始めた (撮影 佐藤振寿氏)
日本兵からお菓子をもらう南京市民 朝日新聞『支那事変画報』
日本兵と車のおもちゃで遊ぶ子供たち すっかり安心しきっている 『アサヒグラフ』
12月20日(南京陥落から7日目)
陥落から1週間後の南京市内 朝日新聞『支那事変写真全集』
12月27日(南京陥落から14日目)
支那兵の手当てをする日本衛生兵 朝日新聞『支那事変画報』
子供たちの治療をする日本軍 『アサヒグラフ』
南京市民はすっかり活気を取り戻していた 『アサヒグラフ』
南京陥落直後、12月南京安全区 (映像)
中国は、12月13日からの2ヶ月間で、
日本軍が南京で30万人の民間人を虐殺したと主張している。当時の南京には、世界各国の報道記者が特派員として派遣されていたが、
虐殺を報道した報道機関は1社もなかった。 目撃したという記者もいない。
日本軍が南京に入り、治安が回復されていったようすが この映像からもよくわかる。
南京市内の道路の復旧工事に汗を流す日本の兵隊
街頭に張られた 親日ポスター
日本軍の占領によって治安が回復したことを聞き、 南京へ戻ってきた人々。
南京陥落時の南京の人口は約20万人であったが、
日本軍が占領した翌月、1938年1月の人口は5万人増えて、25万人になっている。
『大虐殺』の真っ最中だとしたら人々は南京から脱出しようとするはずである。
南京陥落から18日目 1938年(昭和13年)元旦
(映像)
戦後語られている「南京大虐殺」の期間中の南京市内の映像
笑い声をあげて爆竹で遊ぶ南京の子供たち横を日本兵が通り過ぎてゆくが誰も気に掛けていない
南京陥落から2か月
朝日新聞が撮影した、2月中旬の南京城内 『アサヒグラフ』
周囲の南京市民も皆、こちらを向いて微笑みかけており
日本の従軍カメラマンをまったく警戒していないことがわかる『アサヒグラフ』
日本は南京に医療班を派遣し、市民に無料で種痘の予防接種をしていた。 『支那事変画報』
予防注射や種痘をしてもらい「謝謝、謝謝」と喜ぶ南京市民。『支那事変画報』
虐殺されたはずの南京市民
あなたの常識で判断できる
「南京大虐殺」の虚構------
以上
「当時の南京には、世界各国の報道記者が特派員として派遣されていたが、 虐殺を報道した報道機関は1社もなかった。 目撃したという記者もいない。」としてありますが、
朝日新聞には当時の南京の記事・写真が山ほどあるでしょうね。
いわゆる南京大虐殺を真っ先に否定するのが真のジャーナリズムなのでは
(;一一)
《ジャーナリストの見た南京の証言 元朝日新聞編集局長・細川隆元「虐殺なんて絶対にない」》 より
(中略)
ちなみに朝日新聞連載の「中国の旅」と松井石根大将が死刑になった話、三宅久之氏の解説もどうぞ
《《「南京大虐殺と反日プロパガンダ」写真検証、デーブ・スペクターはリトマス試験紙(前半) 【たかじんのそこまで言って 委員会】》》より抜粋
(中略)
(以下 略)
卑怯極まりない支那軍が叩かれず、正々堂々と戦い、現地中国人にも慕われていた
日本軍がいつの間にか「凶悪」として扱われてる、この理不尽さ・・
日本軍の、先人の名誉を回復しなくては!
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追加
アサヒグラフ 支那戦線写真満載です
捏造の南京大虐殺 1+ Joji,,Quaesitor
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